ライブハウスの中でだけ呼吸ができる人をこれ以上増やしてはいけない。
自分はあまり多趣味な方ではない。
夢中になれるものも多いとは正直言い難い。
それでも胸を張って好きだと言えるものがある。
音楽だ。
それも人とつながるための音楽ではない。内面の気持ち、感情を自己表現するための音楽だ。
時々ライブ会場で「かかってこいやー!」と必死に客席に煽るバンドがいる。
あれ個人的にちょっとカッコ悪いなと思う。ちょっとダサい。
そうやって一生懸命背伸びして、肩ひじ張らないと会場を一つにできないのだ。
本当にすごいバンドは違う。内面の感情をそのまま歌にのせる。
自己表現する。そのすごさに会場はいつのまにかのみこまれる。文字通りのみこまれるのだ。全員がすごむ。
そういうのが「かっこいい」だと思う。
世の中の音楽には本当にたくさんの種類、ジャンルがある。
その中で自分は鋭い音を出す男っぽいロックだったり、四つ打ちのキャッチ―な曲だったり、静かなロックバラードだったり、色々好きだ。
けど、共通してるのはそれだ。
自分の伝えたいこと、内面、感情、確かなものを持っている。
だから人と「つながる」ための恋愛ソングはあんまり聞かない。
そんなのつながってるようでつながってない。
そんなの共感と呼ばない。
そんな「共感」を押し付けてくる奴らを、俺はアーティストとは認めたくないんだな。
別にライブ会場に行って周りに合わせて、サビのところで手を上げなくてもいい。
つながるためにはイヤホンで、一人で聴くだけで十分だ。心からその曲を受け止めるだけでいいんだ。
内面をだらけ出しているバンド、さらけ出してもいいんだよと後押ししてくれるバンド。
自分はずっとずっと応援したい。受け止めて自分の血肉にしたい。
そして応援するだけじゃなくて自分もそういう人になりたい。
みんなが肩の力を抜いてさらけ出せる世界にしたい。
そうすればみんな、もうちょっと。もう少しだけ、幸せになれるんじゃないかな。
ライブハウスの中でだけ呼吸ができる人をこれ以上増やしてはいけない。
変身願望
髪型を変えたねとよく言われる。
自分としては変えてるつもりはないんだが、まあ結構な頻度で。
確かに言われてみれば変えてるんだよね。前髪あげたりおろしてみたり。整髪料を変えてみたり。
無意識にね。
今、無意識に、ここではないどこかに行きたいという気持ちになっているのではないか。
というかその気持ちで心はいっぱいだ。
髪を染めて、好きなファッションして、遠くに1人で行きたい。社会的な文脈に自分に嘘をついて合わせるくらいだったら、その社会的な文脈に逆らって、一人佇んでいたい。漂っていたい。そっちの方がきっと「生きてる」。
きっとそれで幸せになる方程式は解けない。分かってるって―の。
けどそこに行きたいんだ。
この「孤独の子」をあやさないといけない。
本当にめんどくさい。この赤ん坊を投げて、放り出してしまいたい。
けど、そうなるともっと孤独になると思ってるから、僕はこの「孤独の子」をいつまでも大事に抱えている。
放り出すことはできるだろうか。
自分に嘘をつくことにはならないだろうか。
今抱えている「孤独の子」は「本当の自分」なんだろうか。
分からん。なんだよ、この例えが一番分らんわ!
今自分は、ワクワクする時がいつなのか分からない状態にいる。
昔の塾のバイト先にいる時は、まちがいなくワクワクしていた。
嫌な気分になることもあったけど、きっとしっかりした差をつけてワクワクが勝っていたはずだ。
今はもうワクワクが勝る時などあるだろうか。
人生を占めている時間のほとんどがただの「暇つぶし」だ。
自分から工夫しようとか考えない。
ふーー。
『自分のなりたい自分になる』
自分の人生の基本軸だ。
変身願望が強い。昔からだ。中2の時に「夢を叶えるゾウ」を読んだ時から。
そもそもお前の「叶えたい夢」ってなんだよ。
その夢を経験値で探すところからじゃねえのか。なあ、ひよっこよ。
そういえば昔の塾の時も、今と同じようにイライラ、モンモンしていた時があった。
あの頃から結局「なりたい自分」になれたのだろうか。
まあ少しは、かな。
ちびっこの時はよかったよな。
腕を目の前で十字に組めば、簡単にスペシウム光線が打てたんだぜ。
まあ今でもウルトラマンになりたければ、なれるんだけどな。
空も飛べそうな昼下がり
みなさんこんにちは。就浪生です。
空も飛べそうな昼下がりですね。
とても気持ちが良い小春日和。
今日は親知らずを抜いてきました。これで4本目。コンプリート。
口の中はすっきりしたはずなのに、今は血が止まらないので、気持ち悪いグネグネしたガーゼをはんでいます。
何もやる気が起きない。なんでもできるはずなのに、ほとんどなにもしていない自分。
まあこれが最近の、頭の中を占めているテーマです。
頭の中にもグネグネしたガーゼがつまっているのかしら。
後は先月別れた恋人のこと。こいつがいつまで経っても頭の中から退場してくれない。
早くいなくなってくれないかな。俺らもう別れたんだろ。ふったのはそっちのほうじゃん。
なんで頭の中にいつまで居座ってるんだよ。
「元カノ」っていうのは不思議に心地よい響きがあるのに、どうして「元カレ」っていう肩書はだっっさいんですかね。
「元カレ」になってしまいました。
突然ですが、目標を立てようと思います。
少しでも人生に張り合いをもたせるための「目標」。
11月までに体重を3キロ増やします。
なぜなら治験バイトをやろうと思ったら、BMIが足りなかったから。どんまい(笑)。増やすしかねえ。
体重増やして、治験バイトやって、お金増やすことが目標。
手段が目的になってるけれど、まあ致し方ない。とにかく太る。
前々から自分の細身にはコンプレックスを抱えてるので、一石二鳥じゃないですかね。
いいぞ。我ながら良い目標だ。そして
そしてね、体重が増えたあかつきには元カノにもう一度連絡を取ってみてもいいですか。
我ながらしょぼい文章だ。
人と仲良くするって難しいと思う。
突然何を言いだしてるんだと思うかもしれませんが、別に病んでないです!
変な心配しないで笑笑
こどもの頃から、人と仲良くなるのは得意じゃなかった。友人の数は少なくなかったけど、いつも仲良くしてた親友の友達が友達になっていくという感じだった。
きっかけとなる人がいないと仲良くなれないのだ。
敬語からタメ口に切り替える瞬間がわからないし、仲良くなれないと思ったらすぐにコミュニケーションをあきらめてしまう。
そこまで友達って大事か?人間関係って大切にしないのか?って思ってるから仲良くなれないんだよな。
断っておくが個人には興味がある。とても興味がある。人間関係の中にいるとその人が本当は何を言いたかったのか、何を考えているのか分からなくなる。
そういう「本当の相手」を一対一で受け取っているときは安心する。
そもそも人が嫌いだと思っていた。
でも塾のアルバイトやゼミで人にインタビューするようになって、その人の中に埋まっているものが見えてくるのが面白いことに気づいた。
中身がさらけ出される瞬間が好きだ。
だからその個人の中に眠ったものが、人間関係のいざこざで引っ込められてしまうことが大嫌いだ。
さらけ出すためのヒントとして、人はふざけたり、恋に落ちたりする。
そんなの馬鹿らしい。だから誰と誰が付き合ってるだとか、あの人はあの人が嫌いだとか、俺は全部言いふらす。いざこざが心底馬鹿らしいと思うからだよね
俺は人間関係をゼロ百で考えてしまうのかもしれないな。だから、すぐにコミュニケーションをあきらめる。
「決めつけこそがコミュニケーションである。」
卒業論文でたてたこの仮説を未だにひっくり返せないでいる。
もう少しこの考えは眠らせておかないと、解決しないのかもしれない。
人はなんとめんどくさいことか。
矛盾、そして秘密
「頭でっかち。」
「自分の考えを曲げなさそう。」
「笑顔がない。目つきが怖い。」
全て自分がよく言われることだ。
おそらく変えようと思えば、いつでも変えられることばっかりだ。その気になれば、いつだって。でも変わらない。それは無意識に自分なりの信念を構築してしまっているからだ。
行動に移さないのは、結果を誰かに批評されてマウントを取られたくないから。
自分の考えを曲げないのは、心の底では自分が世界で一番正しいと思っているから。
笑顔を作らないのは、人の作り笑顔に違和感を覚えるから。心のそこから思える素直な笑い方をしたいから。いじわるな作り笑顔をしたくないから。いつだって自分に正直でいたいから。
人生って難しい。先祖様代々から引き継がれてきた人生訓は時々矛盾している。
人の目を気にするなと言えば、自分の殻に閉じこもるなというし、
やりたいことのためにやりたくないことから逃げるなというし、
個性を出せといえば、調和は大事だと言うし、
自分に正直になれと言えば、人からどう見られるかを意識しろと言う
積極的に質問しろと言えば、自分の頭で考えろと言う。
つかれたあああああああああ
もう疲れちったぜ!。
そもそも他人に教えることなんてできない。過去の自分にしか意味のないこと。
自分のなりたい自分になるし、自分のやりたいことをやるし、自分が一緒にいたい人といる。
神さま、もう全部決めてくれろ。
もう誰のためにも生きない。
自分のために生きる。しょぼく、しょぼく、生きる。
そしてやさしく。
誰かに言葉を発した時点で、それはもう自分の言葉ではなくなってしまうような気がした。「ひみつ♪」にしたい。
人の話を聞くことが好きです。
人の話を聞くことが好きです。
もちろんその人の話す内容も楽しみにしてるんだけど、実はそんなことどうでも良かったりして。
その人の存在、つまり、今現在話している彼もしくは彼女だけでなく、どのような過去の経験があって、現在こうなっているかが透けて見える瞬間が好きだ。
そしてごく稀にその人の未来、と言ったら大げさだろうか。ビジョンが見える人がいる。
そういう瞬間が自分の幸せだ。目の前の存在そのものに感謝したくなる。目の前の相手に対する感謝、ではない。
このタイミングにこの人と合わせてくれた神(笑)に、だろうか。
話がそれたが、人の話を聞くことが好きだ。しかしそれは同時に色んなことを溜め込んでしまう。
手放すことも必要、が、今日言いたいことである。
だから今朝見た、できかけの東京スカイツリーに雪が降り積もっている風景もどうでもいいこと、である。
どうでもいい。手放そう。
そのための自己表現だ。
そのための仕事だ。
しかし
どうでもいいからこそ、そこに価値が生まれる
ちゃんと生きることが好きです。
ちゃんと生きることが好きです。好きなんです。実は。
最近そういう生活にあこがれを持ってます。
いつだったかな。
確かはやみねかおる作の夢水清志郎シリーズに「晴耕雨読」という言葉は出てきました。
たぶん見つけたのはまだ小学生。
そのころからちゃんと生きることが好きでした。
小学生の自分には「晴耕雨読」という言葉がいつも隣に寄り添っていました。
もちろん畑なんか耕さないけれど、早く寝て早く起きて、朝ごはん食べて、学校行って、放課後友達とポケモンのルビーサファイアをやって。
そういう意味のない暮らし以上の幸せって、おそらくないと思うんです。
日常に対する感謝と言ってしまうと、ありきたりになってしまうけど、「晴耕雨読」をもう一度ひきつけるために、このブログのタイトル名にしました。
まあ、ただの思い付きだけど。
そうは言いながらも、ここ最近は深夜の3時に就寝についています。
でも気持ちは「晴耕雨読」です。なんです。
まだ職についていないニートだけど、この気持ちを忘れずに働くことが僕の1年後、2年後、3年後の目標。
いつでも心に余裕を持っていたいものですね。
うるせえ。